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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
ただ、その女の声に、
「おや!」
と、床几の端から振向いたのは、茶屋の主を待っている一人の男で、
「おかしいな、この甘酒茶屋には、あんな若い声のする娘はたしか居ないはずだが? ……」
小首をひねッているふうです。
ところへ、主なる茶屋の名物婆さんが戻って来たので、男はここへ来た用件を話し、西陽を見て腰を立てかけましたが、
「あ、そういえば、今にここへ妙な侍が来るかも知れねえぜ」
と立ちかけ話に――
「気をつけなさいよ、どうも目つきがすごかった。それに、虚無僧岩の手前に、死骸は見えなかったが、どっぷりと血が……そうでがす、あの森と崖ッぷちの間にね」
この者は、最前ここへ来る途中で、星影の谷間へ下る道を例の二人に教えた男とみえます。
下頭小屋でも変な話を聞いたし、千魂塚でも何とやらいう噂もある、お気をつけなさい、お互いに、稼いでも、金なんぞはあまり貯めないことに限りますね――などと用心を言い残し、今日の最後のお客様として、甘酒の火を落とすのと一緒に、男は麓へ引っ返しました。
やがて、店の葭簀が巻かれると、裏の方からパチパチと青い煙が立ちのぼります。
もう、よくせき急ぎな早打ちの飛脚か、迷子の鴉でもない限りには、この小仏を越えるものはなく、宇宙も大地もヒッソリとしたうちに静かな夜霧の幕が全山をつつんで来る。