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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

戸じまりを終えた婆さんが、カタコトと気永に何か晩飯のこしらえにかかっていると、最前聞こえた娘の声が、やはり障子を閉てたまま座敷のなかで、

「さっきお店に来た人が、何かいやな侍に逢ったと言っていましたが、何でしょうね?」

「こんな山の中だから、物騒な事は時々さ。だが、私のように、慾にも色にも縁の遠い人間になると、そりゃあ何処に住んでいても気楽なものだよ」

「羨ましゅうございますね」

「ところが、それじゃ生きている甲斐がない。やっぱり、お前さんぐらいな年頃で、世の中が怖いようでなければ困るよ。――その怖いのを押して、いいなずけの男の所へ行こうという、お前さん時代が私は恋しい」

柄にもない老嬢の述懐を聞いて、障子の中では、若い女がクスッと笑いを押さえたようです。

いや、或いは、それを笑ったのではなくて、自分がここに宿を借るため出たら目に言ったことばを、先が正直に信じているので可笑しくなったのかも知れません。

一方で晩の仕度が出来て、やっと、行燈という名ばかりの品物に、目の悪くなりそうな明りがボンヤリとつくと、女はへだての障子を開けて、

「では、おばさん。いろいろお世話になりましたけれど、これから峠を下りますから……。