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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
老賊
諏訪神社のこんもりした森蔭に石和屋という小料理屋の古びた屋根が、蝉しぐれの声につつまれてあります。
噴き井戸の水でしぼった手拭に汗と埃を拭いて、そこの二階へ上がったのは最前の九兵衛と金吾で、
「こりゃ思ったよりも涼しそうな家だ、ほかには客がないようでございますね」
あてがわれた小座敷へ坐りこまないうちに、九兵衛は言い訳ばかりの食いものと酒をあつらえ、その間に、幾つかの二階の部屋をずッと一通り見届けて帰ってくる。
そして、敷物の一つを、自分の手で床の間の上座へ直して、
「幸いとほかに相客も居ない様子です。さ、若旦那、どうかそれへお着座くださいまし」
両手をぴたとついて、にわかに改まった九兵衛の態度が、ここへ上がる前の老賊ぶりとはガラリと打って変って、あまりといえば金吾の意表を出すぎています。
「さだめし、不審にお思いなさいましょうが、これには事情のあることです。……若旦那、あなたはもう私をお忘れでございましょうな」
「? ……」
「お忘れになっているのも無理はない。もう十六、七年も前になる。……あっしが名古屋表のお屋敷に御奉公をしていて、凧の骨を削ってあげたり、踏み台になって柿の実をもいであげたりした頃は、まだあなたはやっと八ツか九ツ、幼名丈太郎さんといって可愛らしい坊っちゃんでしたからな」