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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

だのになぜ隣の部屋に寝ているお蝶を殺さなかったろうか」

そう言って日本左衛門は、またあの口重そうなことばをつぐのでした。

「――おれはつくづくお蝶の寝顔をその時見た。ころびばてれんの娘だが、一種の高貴の相をもっている。そのくせ、朱い唇は妖婦のようで、長い睫はみだらな美しさと異国人の血を混ぜていることをあらわしている。何しろいい寝顔をして寝ているのだ。で、むざと殺すのが少し惜しい気がして、おれは、行燈へ一筆墨をぶつけて、ふいと帰って来てしまった。それから、自分の考えかたが変って来たのは事実だが、それも、恋だか慾だか、本心のところは自分でもよくわからない……」

と、ここで彼はまた、前にのべた山岳切支丹族のことに話をもどして、夜光の短刀とお蝶との関係にわたり、そのお蝶を失うことは、秘刀探索のやみに光る一点の灯をふき消してしまうようなものだと、その不利なわけを言って聞かせる。

では、日本左衛門がお蝶を生かしておいて、お蝶を利用すべく女房にしようという野心は、まったく野望のための野心であって、恋ではない。

そうも言えるじゃないか――と九兵衛は肚のうちで思いました。