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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

ウム、用があったらいつでも呼ぶ」

姿の見えない跫音が、静かにそこを去ってゆくと、

「まあ坐るがいい。そうしていてもしかたがねえだろう」

お蝶の袖をおさえました。

極端なおびえから極端な落着きにうつる気持が、自分でもわかるように、お蝶は、体のふるえが止まっていました。度胸というのか、不貞腐れというのか、処女のような恐怖の度をとおり越すと、いつも、お蝶は怖いものを知らないような女です。

で、引かれた袖の方へ、黙って横に坐りこむ。

そして、欄間や厨子を見廻して、そこに日本左衛門の居ることすら度外したような顔でいますと、自分の帯から二寸ばかり上の胸元に、樋へ流したような刀のみねが、ピタリと突きつけられて来ました。――ちょうど刀の神経で心臓の音を聞こうとでもするように。

「なんですか、これは」

そういったものです。朱いくちびるが。

「切れることに類のない備前の長船もの」

「まあ、きれいな鉄の色ですこと」

「おとといの晩、お前にたしかに預けておいたものがある。その命をな」

「私の命は、盗賊の借りものなんかではありはしない。……ですけれど、今夜は逃げもかくれもしませんよ」