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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
おりんは、足の裏にねばりつく畳の音を忍んで、幾間もある奥の一室をさぐッて来ました。
かすかな寝息が聞こえます。
そこには静かというよりも、むしろ気味わるい蚊帳の布目がうッすらと青くよれている。
もう夜は肌寒い秋ですから、いかにやぶ蚊の多いこの辺でも、蚊帳をつるべき気候ではありませんが、何しろ、雨戸やふすまも不備なため、枕元にキリギリスが啼き、寝顔をコオロギに踏みつけられるおそれもあるので、蚊帳は夜の虫ふせぎにつるものとみえます。
かりにも、男の寝息がしている部屋なので、おりんは中の一間を措いて、それ以上は進みかねながら、
「最前、お救いくださいましたのは、多分あなた様と存じますが」
そう言って、畳に両手をつきました。
「――只今ちょうど、高麗村の者と、お主のお嬢様とがたずねてまいりました。まことは、明日を待ってゆるゆるお礼を申すのが道でございますが、お嬢様が先を急いでいる場合なので、私も御一緒に今から高麗村へお供をいたします。――ついては、また日を改めてお目にかかりたいとは存じますが、どなた様でございましょうか、お名前だけを、伺わせてくださいませ。……もし、お寝みのところを恐れいりますが、おさしつかえなければ、あなた様のお名前なりと……」