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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
「灯しを。灯しをつけろ」
「曲者をのがすな。庭先へ出合え、庭先へ出合え」
そんな騒ぎが八方を駆けずり廻る間に、まだほんとに眠りついていなかった月江は、おそろしい胸騒ぎを抑えて衣桁の小袖を肌着の上にまとい、歯の根に寒さを噛みながら帯を締め廻しておりました。
そして、真っ先に、おりんの寝間へ駈けこんで行ってみると、おりんは扱帯に両腕を縛られて絹糸のように身をねじったまま、仆れた体をもがいております。
暴風的な驚きのなかに、千蛾老人の横死が人々の口に叫ばれ出すと、その乱迷な廊下を狂わしい勢いで、北の屋へと駈けこんで行った月江とおりんの姿が見えました。
とたんに、声を惜しまずにわッと泣きふしたような、若い女の哀声がその一室から洩れて来る。
表の方ではさらに激しい騒音と喚きがなおも度を加えておりましたが、曲者はその混乱に乗じて手際よく姿をかくしたものらしく、やがて疲れた人々の顔に空しい色がありありと読まれています。
いつか、夜は白々と明けている。
暴風のあとの家には重苦しい哀寂が満ちて、密閉された千蛾老人の部屋から絶えなく洩れるすすり泣きに、家の子の郷士たちも胸をつかれて、皆その板縁の外にうずくまるなり暗愁な涙をのんでひれ伏しました。