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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

かかるうちに、錦霜軒の前の臥龍梅には、ぼちぼちと白い花のほころぶ頃となって、月も如月と変って行く。

怖い誘惑

少し時日をさかのぼって、話はここに切支丹屋敷のお蝶の事にうつるとする。

――そこでは彼女が、秩父天童の盆地を脱出してから、行く先々の宿場や街道の辻で、口の悪い馬方だの百姓の子らに、容貌の異うところを気がつかれるたびに、

「碧眼の女よ」

「混血児のむすめよ」

と指さされて、食に困り、宿に迷い、浮世の悲雨惨風にたたかれ通して、みじめな彷徨いを続けた後流れ流れて、元の江戸へめぐり帰って来た褪せ窶れた姿が、歳晩の巷に見出されます。

「私はほんとに、お馬鹿ちゃんだわ」

江戸へはいると、草市よ羽子板市よと、あわただしく雑沓している都会の雰囲気が、温い気持に彼女をつつんで、四囲の人の目も冷ややかに光る、地方を追われ通して来たお蝶をほっと息づかせて、

「――なぜ私は、甲州へなど逃げたんだろう。やはり江戸が何処よりも一番いい。通る人だって、口をきく人だって、私の睫毛や眼の底なんか見ていやしないもの……」

ただ怖いのは宗門役人です。それと辛いのが、帯や裾のほころびている今の着物です。