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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

窓から下駄をはいて裏へ出るということが、万太郎にはすこぶる愉快に感じられました。屋敷にいては想像もつかないこういう生活が、彼には事ごとに一つの興味となっている。

そこを跨いで、ちんばの下駄を引きずりながら、次郎に案内されて風呂にはいる。

その風呂がまた彼には何ともいえない物です。破れた雨戸を横に立てて、その中に肥桶に似たものがある。

どぶりと野風呂に身を沈めて、夕暮の空を仰ぐと、初めて、気のつかない雲の美しさを見出します。

「アア……よい気持だ」

尾張中将の若殿も、こういう幸福感にひたったことは、実際生まれて初めてのよろこび。

と――たれか、囲ってある戸板のうしろへ、忍びやかな跫音をさせて、

「次郎や……」

と、呼んだ者がある。

「次郎や……、次郎は居ないの? ……」

月並に形容すれば、藪鶯の音といったような、愛らしい女の声です。

風呂の火口に屈みこんで、鼻の穴を黒くしていた次郎は、

「あ……お嬢さん」

と、吾を忘れてキョロキョロと見廻しました。

声のみ聞こえて、風呂の中にいる万太郎に、その姿は分りませんが、双方から寄って行ったらしい二人の話し声が、恋仲のように蜜でした。