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えどさんごくし

江戸三国志

吉川 英治

「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页

青空文庫

「お蝶さん――」

呼びとめた声がある。

遠いようで近い声――さびたる音声でまた弱々しげな声でもあります。

「どこへ行きますか、お蝶さん」

「…………」

お蝶はゾッとして、木の葉まじりの風に吹き止められながら、

「誰?」

と言うと、

「わたしです、ヨハンです」

榎と榎との間に、畳みこまれた石牢の鉄格子。

声の主はその鉄格子に、爪の長い手と蒼白な顔をすがらせて、前を通ったお蝶の姿に、なつかしげな瞳を呼びかけているのです。

「あ、ヨハンさん」

「いいところへ来て下さった。すみませんが、その榎の下に白い物があるでしょう」

「あ、これ?」

「ええ。私の、聖書の綴が切れてしまって、そこへ、ページの端が飛びました」

「取ってくれというの?」

「どうぞ……」と、牢のヨハンは拝むような表情をして、お蝶の手からそれが鉄格子の間にさし込まれると、いくたびも感謝しながら、古い聖書のページへ大事におさめました。

「もう七年」

ヨハンは暗い中にかがやく目をして、

「――羅馬の都を立ってきた時から、この牢にいる間、七年、一日も肌を離しません。こんなになるのも尤もです。私の体さえ、このとおり痩せ細りました。