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えどさんごくし
江戸三国志
吉川 英治
「報知新聞」報知社、1927(昭和2)年10月~終号未詳
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 577,271 字 · 1141 页
で、幼いころの記憶をたどって、きッと自分をよろこんで抱き入れてくれるであろうところの乳母の家をたずねてみました。
その乳母は彼女が十二の年に、切支丹屋敷の父から暇をもらって、甲府の家に帰っている。名は、忘れもしない、お咲という、おはぐろを染めた黒い歯に、なつかしみのある小母さんでした。家は、城下から身延街道に近い西青沼のはずれで、家は小さい機屋で、機屋のほかに、御岳の百草という薬の金看板を出しているという話――そんな話もおぼえている。
そしてその乳母やが、切支丹屋敷の、あの吉野桜の咲く南縁で、よく、甲斐絹を織る機織唄をうたって聞かせてくれたことも、お蝶はいまだに忘れません。
今たずねて行っても、小さな髷に結った乳母のお咲が、おおお嬢様――と膝にのせてくれるような気がする。
宿に休んだのは一日だけで、翌日はもう、お蝶は城下の西青沼の方角へ、お百草の金看板と、小さな機屋をたずねていました。
しかし、それは徒労でした。
尋ねるような家もないし、お咲という女を知る機屋の人もありません。
がっかりして、柳町筋を帰って来る。
日いッぱい歩いたので、足もかなり疲れていました。