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みやもとむさし
宮本武蔵
吉川 英治
04 火の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 185,809 字 · 369 页
忌々しげに、彼は、藁の寝床を蹴とばした。買って来た薬も外へ打ち捨ててしまう。そして一日の行乞に胃は飢えぬいているのであったが、晩の食べ物を作りにかかる気力も失せたように、尺八を持って、
「あ、あ」
阿弥陀堂の縁へ出てゆく。
それからおよそ半刻ぐらいの間というもの、取り止めもなく、彼のふく尺八は、彼の煩悩を虚空へ遊ばせていた。人間の情慾は、墓場に入ってしまうまでは、形を変えても人体のどこかに、燐のように元素的な潜在をもっていることを、丹左のふく尺八は、虚空へ自白していた。
(どうせ、他の男性に、勝手にされてしまうあの娘の宿命なら、なにも自分だけが、姑息な道徳の通念にしばられて、一晩じゅう、寝ぐるしい思いなどしている必要はなかったのだ)
後悔に似たものだの、それを自分でいやしむ気持だの、雑多な感情が、帰着するところなく、血管のなかを、いたずらに駈けまわっているのが、いわゆる煩悩なのである。――丹左のふく尺八は、ひたすら、その感情の濁りから澄もうとする必死な反省であるらしいが、よくよく業のふかいこの男の生れ性とみえて、彼がむきになってかかる程には、その吹禅の竹は澄んで来なかった。