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みやもとむさし
宮本武蔵
吉川 英治
04 火の巻
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 185,809 字 · 369 页
もう武蔵の影は、どこにも見えないのであったが、彼女は、跳べない流れを見ると思わず、死に別れた者が間際にさけぶように、
「武蔵さまあっ」
――すると、それへ向って、
「おうっ」
と答えた者がある。
小舟の苫をばらばらと払い退けて、そこに突っ立ったお杉隠居であった。
お通は、なんの気なく、それへ振向くと共に、
「――きゃっ!」
顔をおおって逃げ走った。
隠居の白い髪が風に立った。
「お通阿女っ」
次のことばは、老婆の極度に揚げた息のために、声が挫げて、
「用があるッ、待たっしゃれっ」
つんざくように水へ響いた。
お杉隠居の邪推からこの場合の結果を判断すれば、こういう風にはなはだしく悪くとったかも知れない。
武蔵が自分へ苫をかぶせたのは、お通とここで逢曳きする約束があったからにちがいない。その上の痴話が何かにこじれて、武蔵が女を振切って去ったので、お通阿女は泣き声をしぼって男を呼び返しているのだろう。
(そうだ)
と咄嗟に、自分の思うことをこの老婆は、すぐ自分だけで事実としてしまう。
(憎い阿女)
武蔵以上の憎しみを、お杉はお通へ抱くのであった。
まだ約束だけで家にも入れないうちから、息子の嫁は自分の嫁のように思い、息子が嫌われたことは、自分が嫌われたことのように憤ったり、怨みに思う老婆だった。