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ちけむりてんめいじん

血煙天明陣

国枝 史郎

「東京日日新聞」1933(昭和8)年11月7日~1934(昭和9)年4月20日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 191,184 字 · 379 页

青空文庫

名与力貝十郎

一

それを見すてて引っ返したらしい、

「駕籠やれ露路へ!」

と熊太郎の声が、もう駕籠脇から聞こえて来た。

人間業とも思われぬ、あまりに見事の戦い振りに、恐怖を感じた外伝、新助、ガタガタ躯を顫わせながら、

「ヤ、やれ」

「イ、いそげ」

またも露路へ駕籠を舁ぎ込み、足を早めて走ったが、南無三また空地へ出た。

と、暗中から叫ぶ声がした。

「戸ヶ崎先生おいでなさるか?」

錆びた、艶のない、底の深い、しかし何らかに自信を持った、中年の男の声であった。

「拙者、平戸九十郎でござる。……平戸九十郎と申すものでござる。……」

「…………」熊太郎はものいわず聞き澄ましていた。

「見事のお腕前ほとほと驚嘆……お噂以上と見申した……」

「…………」

「これ以上切り合いをいたしましても……我らの手の者斃れるばかりでござる。……不愍に存じ申すゆえ……拙者とご貴殿と一騎討ちいたし……幸いにして拙者勝たば、織江殿頂戴仕る。……」

「…………」

なお熊太郎は黙っていた。

「拙者討たれればもはやそれまで……」

この時熊太郎は数歩進んだ。

名与力貝十郎

一

織江を駕籠で送り出して、心寛いだ冬次郎は、居間にしている中央の建物の、利休好みの清楚の部屋で、一人しずかに茶を飲んでいた。