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かんかんむしはうたう

かんかん虫は唄う

吉川 英治

「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页

青空文庫

だが、彼は、それが先刻の二婦人でなかったことに狼狽した。馭者の鞭は、風を切って、飛び降りた彼の影をビュッと払った。

とたんに、馬車の戸を排して、ふたりの憲兵が、外をのぞいた。トム公は胆をひやした。横ッ飛びに逃げ出した。豪放な笑い声が、そのうしろで聞こえたように思った。

「プリンス!」

「どこへ行くのさ」

野毛橋は、通せんぼをして、彼を通さなかった。彼は、咽せるような匂いに包囲されて、軽々と、河岸の暗い所へ運ばれてしまった。

「なぜ、黙って通るの?」

女たちは、みんな、熱帯人種の好むような強い臙脂のハンケチを襟にむすんでいた。共同便所の異臭と柳の葉のそよめく闇に、十二、三の白い顔が、海月みたいにぽかぽかと彼を取り巻いた。

夏に、秋に、春に、夕暮となると、享楽の開港場の街を押し流してあるくハンケチ工場の女工たちである。西戸部にはむらさき組、大田町には臙脂組、北方にはコバルト組、それらの色とりどりが、伊勢佐木町の夜景を、どんなに濃くすることか。

「どうしたの? トム」

「まあ、やアだ!」

「泥だらけよ」

「血が」

「なめてあげよう」

トム公は甘んじて、頬と、右の肱を、こそぐッたい舌に舐めさせていた。