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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
「おい、馭者っ、馬車を止めい」
「おじさん」
トム公の海軍洋刀の先は、真っ蒼になって顫いている奈都子の顔のそばまで届いていた。
「騒ぐと、お嬢さんの顔を、ここの、幌みたいに破ッて逃げちまうぜ」
「…………」
「卑怯なことをしっこなしさ。おら、ただ懸合に来ただけなんだよ、何も、人殺しに来たんじゃないよ」
馭者は、聾のように、自己の使命だけを守って、税関前の大通りを曲がり、前よりもはやく快走をつづけている。――理平は、子供だとは思いながら、幌の破れから突き出している顔だけを見ているので気味が悪かった。
「お槙、おまえは、このかんかん虫のトムというのを知っているのか」
「い、いいえ」
彼女のことばは、ひッつれた喉からやっと洩れた声だった。
「だって、今朝の電話では、昨日のことについてと言ったが……」
「そうだ、そのことさ!」と、トム公は流暢な横浜弁で一息に言った。
「――きのう、ここにいる女の人が、船渠のM号へ遊びに来てる間に、オペラバッグを船のインド猿に攫われたんだぜ。その中にゃ十万円もする腕環がはいってると言ッてベソを掻いてたから、おら、可哀そうだと思って、マストへ登って取り返してやったんだ」