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かんかんむしはうたう

かんかん虫は唄う

吉川 英治

「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页

青空文庫

「おばさん、こんばんは」

豚の如く肥えたここの内儀さんは法華信者とみえて、店先から見通しの部屋で、非常に木音のよく響くものをカチカチと懸命にたたきながら、トム公を横目に見て、

「こんばんは」

と、お題目のあいだに言った。

「これネ、おばさん」

「はあ」

「ここンちの自転車だろう。居留地で、自転車を持っとる家は、何軒もないからね」

「そうだよ、家のだよ」

「八番館の横にあったから、持って来てやったよ。いいかい、ここへおいとくよ」

「おやじさんは、見なかったかね」

「見なかったよ。――駄ちんに、鶏卵一個貰っとくぜ」

卵の箱から、一箇取って、奥へ示しながら往来へ出た。彼は空腹だった。何しろ、きのうの銀貨は、みんな亀田の家族に貢いでしまったので。

トム公は、木靴の尖で、卵の殻の両端をコツコツたたいた。歩きながら、小さな穴を開けようとして、ていねいに、殻の亀裂をむしッている彼の姿は、いかにも無邪気なマドロスである。

チュッと舌を鳴らしながら美味そうにそれを啜った。――と思うと、いきなり拳を振りあげて、彼へ嗅覚を向けて来た野良犬へ、卵の殻をたたきつけた。犬は驚いて、横ッ飛びに逃げた。