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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
ただ――たった今、郵便箱の蔭で、指笛を吹いたトム公だけがすぐにそれを見つけて、にこッ、と笑った。
お光さんは首をひッこめた。
そして再び、飽食した豚のように、鼾をかいて寝ている柳田老人の顔をながめていたが、やがて金剛石の指環をその小指に嵌めてやって、その代りに、彼のポケットにある五、六個の鍵のうちから一箇を抜き取って出て行った。
三階は、日本間になっていて、老人の居間であった。彼女がそこの勝手に通じていることは、自分の銭入にいくらあるかということよりも詳しい。袋戸棚の手提金庫は、机の上に持ち出されて、苦もなく彼女に千五百円の紙幣をかぞえさせた。鍵をそれにさしたまま、元の所に納めると、お光さんは階下へ降りて、小売部の若い店員へ、素直に、さようなら――を与えて街へ歩み出した。
この間、ナンキン墓での時に、今夜ここへ来いと言われていたトム公は、正直に、約束の時間を待っていた。
「君、たくさん待っていたの」
「なあに、三十分ばかり」
「うっかり寝込んでしまうところさ。そのかわり、予定は着々とはこんでいるわよ。……さ、この百円を亀田の家族に、この百円をおまえのおっ母さんの当分の暮しにあてがっておいで。