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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
外から眺めている豆菊の眼には怖くて見ていられないような、彼の敏活な行動が始まった。苦もなく二階の露台へ上ったトムは、そこの扉を押してみたが開かないので、やがて今度は物干綱の先に何やら結びつけて、何度も何度も三階の手欄へそれを抛っていた。そして目的を達すると、ぐんと引いてみて綱へ体をまかせた。
ぶら下がッたトム公の体は、時計の振子のように二階と三階の間に大きく揺れていた。彼の両足は高い壁上を逆さになって歩き出した。
仙さんが教えてくれた通り、彼の見ておいた三階の五ツめの窓が、たしかに十九号室であった。
「おっ母あ!」
その手欄に掴まりながら、彼は、首をのばして、硝子窓のうす暗い明りへ呼びかけた。白い寝床がトムの眼に映った。
「おっ母あ!」
トムは遂に、手欄を跨いで、ぴったりと、硝子へ身を寄せた。懸命に、必死に、そして注意ぶかい低い声で、なんども呼び声をくり返した。ガラッと窓が上へ開いた。そして、
「こっちへおはいり」
と、彼は手を取って中へ引き込まれた。
しかしそれは、母ではなかった。黒い背広の上へ雪白の臨床服をまとった医員であった。トム公は吃驚して跳ね返ろうとすると、医員は臨床服のポケットから聴診器にあらぬ捕縄を出してトム公の目の前へぶら下げた。