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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
けれどあのチビなトム公であるから、数万の人間が潮流のように押してゆく所に発見されるわけもなかった。
「あいつだけ知らないのじゃないか、きょう競馬に行くことを」と、樫井は言った。
「そんなことはないわけよ。ナンキン墓の帰りにも相談を聞いていたし、あれから後、私の口からもよく話してあるんだから」
「妙だな、来ると言えばきッと来るトム公なのに」
「だから私も心配なの」
お光さんは、折角もくろんで来た馬券合資会社の出ばなを折られた気がして、こんな日に競馬場へ行っても勝てないに決まっていると思った。トムのいないグループなら彼女になんの魅力もない、用もない存在だった。
帰ろうかしら?
彼女はめずらしく女らしい憂鬱に曇った。しかしほかの連中は、競馬場の上の埃を見るだけでも気が逸って、トム公の見えないことは伴奏者の来ない寂寥にはちがいなかったが、きょうの希望に何らの支障とは思わないのである。
「もう十一時だ」
ひとりが、つまらなそうに言った。
「お光さん行こうぜ!」
花火が空に炸裂する、遠くの音楽隊の吹奏がながれてくる。観衆はグラウンドにつめ込んだ。――お光さんもまたきょうの合資会社の社長として否応なく連中に取りかこまれつつ競馬場の入口に立った。