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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
島崎は、それらの蜘蛛の眼みたいな誘惑線を巧みに避けて、柵のそばにぴったりと箱を寄せている小型な薔薇色の馬車を見かけて、
「お、これだね」
「はい」
と、馭者は心得ていた。
「はやくやってくれ」
島崎は、従者と一緒に、逃げこむように、扉をあけて中に飛びこんだ。――と中のクッションにからだを埋めていた女が、
「ま。遅いのね」
と、手を取って引き入れた。
それは千歳の女将だった。
「あ。違った」
と、島崎は狼狽して出ようとした。しかし、馬車はもう勢いよく走り出しているのみならず、女将は、調子のたかい笑い声を疾走する窓から撒きながら、こう言うのだった。
「人違い? ほほほほ。島崎さん、いつかの機会には、私を、月下氷人だと言ったくせに、今夜は、人違いなの。――だけど、ご心配はいらないことよ、お約束の人は、今横から出て来ますから。あれ、もう後から尾いて来る! 同じ薔薇色の馬車ですの。あれには、皆さんが乗っていらっしゃいます。――え、私? 私はお料理屋の女将ですもの、あなたを横奪りなんてとんでもない。ただ、本牧のお別荘に着くまでの途中、人目につくといけないというんで、こうして、飾り物になって、おつきあいしているに過ぎませんのさ」