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かんかんむしはうたう

かんかん虫は唄う

吉川 英治

「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页

青空文庫

「どちらへって、今夜は、本牧の方へ、船のお客を呼ぶ晩じゃないか」

「じゃ、そこへ、島崎さんをお連れして行ってもいいでしょうね」

「うん……。だが、来るかね」

「嫌だと言っても、連れてゆきますわ」

「よかろう」

夫人のお槙は、そういう間にも、ともすると見失いそうになる島崎の顔を、眼から離さないで、会話が終るとすぐに、彼のそばへ戻って来た。

そして、彼の耳へ背のびをして、

「いいこと。事務所の門の方へ、馬車を廻して置いてよ」

と、言いながら、手袋をぬいで、島崎の指先をつよく握りしめた。そして、もういちど、

「いいこと。分って、――薔薇色の馬車よ、薔薇色の」

と、念を押した。黄金色の埃の虹を立たして、根岸の競馬場に陽が沈みかけた。はるばると、東京から来て東京へ帰る俳優の羽左衛門だの、洗い髪のなにがしだの、仇っぽい名や、いかめしい著名の名士たちが、つかれて帰る群衆の眼に拾われながら、そこが暗くなるまで、人の崩れがやまないのである。

ひとりの従者を連れて、島崎は、合着のオーヴァの襟を立てて、事務所の門からこっそりと外へ出て来た。

贔屓の騎手を攫ってゆこうとする貴婦人たちの旨をうけた俥や、幾台もの馬車が、まだ根気よくそこに網を張っていた。