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かんかんむしはうたう

かんかん虫は唄う

吉川 英治

「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页

青空文庫

「逃げませんか」

「え」

「ほんとの道へ」

「ほんとの道って」

「僕が手をひいてあげます」

「でも……」

と、彼女は、両手で顔を掩った。

「だって……わたし」

「つよくなければだめですよ、つよく」

今村は、ささやいた。彼女の顔を掩っている指を、ぐように剥り離して、そして唇をそっと寄せた。

「あッ」

奈都子は彼を突き放した。彼のくちびるを恐怖したのではない――すぐうしろの棕梠の葉がガサッと妙な音を立てたので、ひょいと振り向いた途端に、わっと、泣くように驚きながら、羞恥に眼が眩みそうになったのだった。

「奈都子さん」

「ひどい人!」

奈都子は、袂を上げて、今村を打った。

棕梠の葉のかげや、温室のうしろに、鳴りをひそめていた妙な人影の気配は、たえきれなくなったように、どっと笑った。そして、そこらの南洋植物の暗い蔭の中から、お光さんの顔が咲いた。黒眼鏡がのぞいた。樫井や、トム公や、愚連隊たちの顔が、いちどに伸び上がった。

「――誰だい、かんじんな所で、吹き出したやつは」

奈都子を取り逃がして、引っ返して来た神学生の今村は、腹立たしそうに、仲間のものに当りちらした。

「蔭でクスクス笑い出しちゃ、こっちで真面目になれやしねえじゃねえか」