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かんかんむしはうたう

かんかん虫は唄う

吉川 英治

「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页

青空文庫

「分ってるわよ」と夫人は地を出して――「分っているけれど、こん夜はいいじゃないの」

「まだ、もう一競馬ありますからな」

「酒は飲めない、夜更かしはいけない、女も何もなんて、そんなにびくびくしていなければならないものなら、騎手なんてやめっちまえばいいのにさ。坊さんになっても同じことだわ」

「まったく、騎手生活なんて、はやくやめたいです。人気者になるほどいやなものはありますまい」

「だから、この次の競馬には、負けた方がいいじゃないの」

「そうも行きませんな。ははは」

「やっぱり、人気者でいたいんでしょう」

「だから苦しむのです。それがなければ何も」

「むじゅんしているわね、この人。――いいわよ、どっちにしても、こん夜ひとばんは、きっと私につきあってくれるのだから。ね、そういう約束だったわね」

「それやいいですとも」

「なんだかうわの空だわね、この人は。よその奥さんを騙すようには、私は、いかないことよ。ご承知でしょうが」

「ははは、騙せるあなたでもないでしょう。ま、そこのベンチへ腰掛けましょう、すこし草臥れました」

と、島崎はくすぐったい顔をしながら、ベンチのまわりを見廻した。