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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
髪結が帰る。洋服の着付師のお定さんが来る。理平は、万年青展覧会ほどある屋上庭園から降りて来て、ちょっと、店へ顔を出して、金庫の鍵を鳴らしながら奥へ引っこむ。
午後四時――やっと女中が馬車会社へ電話をかけている。夫人お槙は、かつらのように夜会巻に結って、居留地仕立の洋装に開化人のあらゆる粧いを凝らし、バイオレットの香液を咽せるほどふりかけて、金春時代の全盛さを、ちょっと理平の眼に偲ばせた。奈都子はまた、きのうとは下から帯まで色彩を変えた裾模様に、白金と宝石のかがやきを歩身から撒き散らして、フロックコートの伯父を中に挟んで、馬車へ乗った。
夕風を切って、馬車のムチは鳴る。
赤塗の轍はれきろくと関内の文化街を真っすぐに疾走した。前の台に胸を張って、二頭の馬を操りながら、辻々の人を避けさせてゆく馭者の鞭振りを眺めつつ行くことは、彼女たちに快い誇りを満たした。長い点火器の棒を持って飛ぶ瓦斯燈夫や、石油罐とキャタツを腕にかけた軒燈屋が、縦横に町を駈けて、町の夜を華やかせてゆく。
「あらっ?」
うしろの幌が、ばり、ばりッ、といったのでお槙も奈都子も、同じ姿態をして、振り向いた。