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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
あの立派な髯も、見当がつかなかった。
「おじさーん。亀田さーん」
亀田は、別人のようになって、これもうろうろトム公を探していた。一等船室の甲板から頓馬な首をのばして、
「ここにいます」
「上がっていたのか」
「弁当を食べようと思って」
「そこはいけねえ、外国船の船長のやつ、癇癪もちだから、甲板をよごすと怒るぜ」
「え、いけませんか」
小心そうに、亀田の大きな体がそこのブリッジを降りかけて来た時だった。ふとうしろから、茶色の丸ッこい動物が、彼の肩を越えて、上の船橋へ跳び上がった。
それと共に、一つの船室から、ハイヒールのあわただしく弾む跫音と、ゴム草履とが、もつれながら駈けて来て、
「あれ! たれか、あれを捕えて下さい」
亀田の肩をたたいた。泣き出しそうな声だった。
彼の眼は、受令的に、船橋を彷徨したが、何も見つけえなかった。二人の婦人は、彼が有髯のかんかん虫であったと気づくと、きたない物のそばを離れるように飛び退いた。そして、こんどは、水夫や事務長を呼び立てた。
幾つもの扉が一時に押された。赤い顔や、のッぽや、デブが溢れ出して、亀田は早口な外語と葉巻くさい体臭に取り巻かれた。