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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
硝子戸いッぱいに、海の色である洋館の応接は、さながら貴賓室ともいうべき、すべてが重厚な色と匂いをもって装飾されていた。七、八年前に、外務省の玄関で、一壮漢のために右足を失った大隈重信は、ぞろぞろと彼に侍く人々の先に立って、海を前に、ふかいソファの中に腰をうずめた。
「いいのう、横浜も、波止場や船渠の音が聞こえる所ではたまらんが、山手町をこえて、ここまで来ると大いに景観がちがってくる」
彼の顧みた所に、千歳の女将が、笑っていた。
「御前様、それはお皮肉ですか。何しろてまえどもなどでは、眺めといえば、波止場のマストかかんかん虫の人通りだけでございますからね」
「わはっははは、おまえの家を、けなしとるわけじゃないんであるよ。ここの眺望を賞めたまでじゃ」
「お越しにあずかりました上に、お賞めをうけて、恐縮にござります」
と、理平が、わきの椅子から、しきりと頭を下げていたが、大隈伯には、眼にはいっていないようだった。
「女将」
「ハイ」
「おまえ今、かんかん虫ということを言ったが、そのかんかん虫で思い出したことがある。なあ渡辺」
と、うしろの執事らしい男へ言った。
「は、いつぞや、船渠会社のまえをお通りになった晩でございましたな」