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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
「そうそう、あれは小ッこいかんかん虫じゃった。何と思ったか、わしの馬車に飛びついて来たんである。あんなのが、横浜名物とすると、女などは、夜歩きはできんぞ」
「御前様、それは、波止場乞食ではございませんか。よく馬車へとびついて、お金をねだる――」
「いろいろなものがあるんじゃの、横浜には」
伊勢佐木警察署長の保科勝衛が、壁に向って、油絵の額をながめていた眼をうつして、ことばを挟んだ。
「渡辺さん、その晩のかんかん虫らしい小僧というのは、どんな服装をしておりましたな」
「夜なので、よく分らんが、十四、五ぐらいな奴じゃ。木靴というか、ズックで木の底の靴を、ぱかぱかとならして、逃げおったが、おそろしく、素早い」
「ははあ、それや、トム公という小僧であったかも知れませんな」
「トム公?」
伯は、トム公という名と、あの晩の――右脚爆失以来である路上の襲撃者であった矮短なかんかん虫に、すくなからず興味をもった様子である。
そこへ、座敷くばりを視に行った千歳の女将が、
「御前様、では、お支度ができましたから、どうぞあちらのお広間の方へ」
と、扉をひらいた。
華やかなイギリス絨毯をふんで、伯を中心にかこむ人々がゆるやかに日本間の方へながれてゆくと、その後から尾いてゆく、一組の雛妓たちが、馴れて怖さを失った隠し笑いを、クックッと、袂につつん