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かんかんむしはうたう
かんかん虫は唄う
吉川 英治
「週刊朝日」1930(昭和5)年10月号~1931(昭和6)年2月号
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 91,006 字 · 182 页
やがてそれが人間であること、男女のふたりであったことが分ってからよけいに胸がときめいた。二人はベンチを離れると、すぐに他人のようになってべつべつに別れて行った。
彼は、ぼんやりとお光さんの唇を思いうかべた。――そして朝、眼がさめてまでゆうべの悪夢が後頭部にこびりついて彼の軽快を削いだ。
陽がたかくなると、全市の空に、根岸競馬の花火が晴々しい爆音をひろげた。町の人々はすべて競馬場へ向っているようにトムには見えた。
ポケットの百円紙幣も海軍ナイフも、きのう伊勢佐木署から少年懲治監に送られるまえに刑事に取り上げを食っていたので、彼の淋しく探る指先には、何もふれるものがなかった。それでも競馬場にさえゆけば、お光さんか誰かが来ているにちがいないという希望が、わずかに彼の気もちを幾分か躍らせていた。
「トム、トム公じゃないか」
彼は刑事の声と聞きちがえた。ビクリとした眼は秋の空の下にはちきれそうな健康さをもって笑っている男の眼と出会った。彼は、数百円もしそうな漆黒のサラブレッド種の鞍にぎゅっと乗りこんでいた。その毛の艶、乗馬靴の艶、鞭の艶、トム公は惚れ惚れと見入ってしまった。