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ばいりせんせいぎょうじょうき
梅里先生行状記
吉川 英治
「朝日新聞」1941(昭和16)年2月18日~8月24日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,260 字 · 418 页
八
「昨夜は一睡もおやすみにならなかったようですが、お脈には何のおかわりもございませぬ」
むしろ不思議そうにいうと、きのうから初めての一笑をふと口のあたりに洩らして、
「わしはまだ六十七。ひと夜ぐらい眠らぬとて、脈がみだれるほどな年ではない。いま光圀の気脈がみだれてはなるまい。そう思うているせいであろうか」
と、いった。
八
「生来、ご長命の質でおいで遊ばしますから……」
と、宗典は医家らしく、かろく受けても、心のうちでは、老公の今朝の健康に、決して安心はしていなかった。
「――ま。ともあれ、これからお寝みなされますよう、おすすめ申し上げまする」
「ウむ。一睡しよう」
老公は、素直にうなずく。
宗典はそこを退るとすぐ、寝所にしとねの用意をするようにいいつけていた。
朝の陽は高くなる。
縁に、障子に、壁に、梅の木々は、のどかに影を投げていた。ひと間、静かに閉めきってある所が老公の寝室らしい。
やがて大きないびきが洩れていた。鶯がどこかで啼きぬく。
表面、この日も西山荘は、つねと変りはなかったが、一部の人々は、ひそかに旅立ちの支度をしていた。
馬には糧草を喰わせ、また、納戸部屋のすみで、ただひとり刀を検め、打粉を打っているさむらいもあった。