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ばいりせんせいぎょうじょうき

梅里先生行状記

吉川 英治

「朝日新聞」1941(昭和16)年2月18日~8月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,260 字 · 418 页

青空文庫

「頭や面はまだつけるに及ばぬ」

と、とどめて、

「時刻は」と、訊く。

なお余裕のある旨を答えると、さらばと起ち上がって一同を顧み、

「少々存ずる旨あれば、鏡の間より予が呼ぶまで、其方たちもここを出て随意に休息いたしておるように」

と、いった。

いい終るとすぐ光圀は隣の鏡の間へはいった。

ここは舞台と同じように拭きみがいた板敷である。一隅に装束をあらためる鏡がすえてある。橋がかりへ出る口には幕が垂れているし、角の奉行窓からかすかな明りはさしているが、塗籠のように仄暗い。そして一面の鏡だけが冷たい光をたたえている。

遠ざけられた人々も、静かに楽屋を出て行った。その人々のひそかに思うには――おそらくこの切能の春日龍神の後ジテをもって、生涯の舞いおさめと期しているらしい老公は――心ゆくまでそれを果すため、舞台へかかる前のしばらくの時間を、独り鏡の間にあって、芸に対する丹心と工夫を凝らしていたいのではあるまいか――そう当然のように察していたのである。

が、光圀は、そこにすえてある鬘桶に、ゆたりと、腰を掛けると間もなく、

「介三郎介三郎」

と、ふたたび呼びたて、

「下段の間には誰と誰とがおるか」