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ばいりせんせいぎょうじょうき
梅里先生行状記
吉川 英治
「朝日新聞」1941(昭和16)年2月18日~8月24日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,260 字 · 418 页
おまけにあばたがある。幼少にほうそうを病んだからである。とにかく、人好きのしない、むッつりやさんであった。
(――これでは家老の藤井紋太夫とは、まったくうらはら、合わないで排け者にされたはず……)
と老公も、その顔を、しげしげながめ入っている。
この無愛想者の将来はまだわかるよしもないが、この男の亡父、人見卜幽はとにかく偉かった。
もと丹波の人である。
苦学して、江戸に出、林羅山にまなび京の縉紳にまで知られた。
老公の先代、頼房が抱えて、侍講とし、また光圀も幼少から就いて学んだ。――いやそれよりもっと光圀として忘れがたいことは、かれが十八歳、「大日本史」編修の大業を――国業として思いたった時、
(予に力を添えてくれ)
と、初めてうちあけたふたりの学者のうちの実に一人であったからである。
それも半ばに。
卜幽は、寛文十年に死んだ。
生前、多くは、史業のため、かれは江戸の史館や私邸にいたが、光圀が国許にいるあいだは、卜幽もよく水戸にいた。
かれの死後、一子の又四郎を、報恩の意味で、光圀の家中に養っておいたが、長ずるにしたがって、持前のぶっきら棒から、たちまち藩老の藤井紋太夫と衝突してしまい、紋太夫の一派から忌まれて、ていよく排斥されてしまったものである。