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ばいりせんせいぎょうじょうき
梅里先生行状記
吉川 英治
「朝日新聞」1941(昭和16)年2月18日~8月24日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 209,260 字 · 418 页
この文章は、光圀の起稿ではない。光圀が尊敬し師事していた朱舜水の文集のうちにある楠公画賛の一文をとって、碑銘に用いたものである。
筆者の岡村元春は、介三郎の旧友だった。また、碑の正面は光圀の「嗚呼忠臣楠子之墓」の八文字でよいとしても碑陰の文がないのはさびしいといって、この事を老公に献言したのも介三郎であった。
「ともあれ、年内には相違なく、出来あがろうな」
介三郎のことばに、石権は責任をもって答えた。
「かならず、やり上げます」
「たのむぞ、明春には、老公へもよいお報らせして、およろこびを得たいからな」
「うけあいました」
十一月にはいる。
このあいだ、雨の日やら、湊川の出水やら、また墓山のくずれから、基礎の亀石や壇石に狂いが生じたりなどして、あと年内の日も、数えられるほどに迫って来たのに、工事はなかなか予定どおりにゆかなかった。
このあいだに、佐々介三郎は、京都や大坂などへ、幾たびか出かけていたが、いつも数日で帰って来ていた。
例の浪人者と、職人たちのあいだが、旅へ出ても、気にかかるからだった。
年暮の十日ごろ、碑陰の文は彫りあがった。
勘太は、湊川から、荷担いの水桶で、何度も河水を汲んで来た。