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しぶえちゅうさい
渋江抽斎
「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页
その三十八
始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出でたものである。
その三十八
抽斎の将軍家慶に謁見したのは、世の異数となす所であった。素より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部内匠頭政醇家来辻元庵の如く目見の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先って伊沢榛軒が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中になっているので、薦達の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見をした人には、五年前に共に講師に任ぜられた町医坂上玄丈があった。しかし抽斎は玄丈よりも広く世に知られていたので、人がその殊遇を美めて三年前に目見をした松浦壱岐守慮の臣朝川善庵と並称した。善庵は抽斎の謁見に先つこと一月、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽斎とも親しく交って、渋江の家の発会には必ず来る老人株の一人であった。善庵、名は鼎、字は五鼎、実は江戸の儒家片山兼山の子である。