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しぶえちゅうさい

渋江抽斎

森 鴎外

「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页

青空文庫

その百十四

家族関係の上に除きがたい障礙が生じたためである。

商業を廃して間暇を得た陸の許へ、稲葉の未亡人は遊びに来て、談は偶長唄の事に及んだ。長唄は未亡人がかつて稽古したことがある。陸には飯よりも好な道である。一しょに浚って見ようではないかということになった。いまだ一段を終らぬに、世話好の未亡人は驚歎しつつこういった。「あなたは素人じゃないではありませんか。是非師匠におなりなさい。わたしが一番に弟子入をします。」

その百十四

稲葉の未亡人の詞を聞いて、陸の意はやや動いた。芸人になるということを憚ってはいるが、どうにかして生計を営むものとすると、自分の好む芸を以てしたいのであった。陸は母五百の許に往って相談した。五百は思の外容易く許した。

陸は師匠杵屋勝三郎の勝の字を請い受けて勝久と称し、公に稟して鑑札を下付せられた。その時本所亀沢町左官庄兵衛の店に、似合わしい一戸が明いていたので、勝久はそれを借りて看板を懸けた。二十七歳になった明治六年の事である。

この亀沢町の家の隣には、吉野という象牙職の老夫婦が住んでいた。主人は町内の若い衆頭で、世馴れた、侠気のある人であったから、女房と共に勝久の身の上を引き受けて世話をした。