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しぶえちゅうさい

渋江抽斎

森 鴎外

「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页

青空文庫

その百十三

これは初め商売を始めようと思って土著したのではなく、唯稲葉という家の門の片隅に空地があったので、そこへ小家を建てて住んだのであった。さてこの家に住んでから、稲葉氏と親しく交わることになり、その勧奨に由って砂糖店をば開いたのである。また砂糖店を閉じた後に、長唄の師匠として自立するに至ったのも、同じ稲葉氏が援助したのである。

本所には三百石取以上の旗本で、稲葉氏を称したものが四軒ばかりあったから、親しくその子孫について質さなくては、どの家かわからぬが、陸を庇護した稲葉氏には、当時四十何歳の未亡人の下に、一旦人に嫁して帰った家附の女で四十歳位のが一人、松さん、駒さんの兄弟があった。この松さんは今千秋と号して書家になっているそうである。

陸が小家に移った当座、稲葉氏の母と娘とは、湯屋に往くにも陸をさそって往き、母が背中を洗って遣れば、娘が手を洗って遣るというようにした。髪をも二人で毎日種々の髷に結って遣った。

さて稲葉の未亡人のいうには、若いものが坐食していては悪い、心安い砂糖問屋があるから、砂糖店を出したが好かろう、医者の家に生れて、陸は秤目を知っているから丁度好いということであった。