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しぶえちゅうさい
渋江抽斎
「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页
その七十八
何故というに、晩年の漁村が弟子のために書を講じたのは、四九の日の午後のみで、その他授業は竹逕が悉くこれに当っていたからである。漁村の書を講ずる声は咳嗄れているのに、竹逕は音吐晴朗で、しかも能弁であった。後年に至って島田篁村の如きも、講壇に立つときは、人をして竹逕の口吻態度を学んでいはせぬかと疑わしめた。竹逕の養父に代って講説することは、啻に伝経廬におけるのみではなかった。竹逕は弊衣を著て塾を出で、漁村に代って躋寿館に往き、間部家に往き、南部家に往いた。勢此の如くであったので、漁村歿後に至っても、練塀小路の伝経廬は旧に依って繁栄した。
多年渋江氏に寄食していた山内豊覚の妾牧は、この年七十七歳を以て、五百の介抱を受けて死んだ。
その七十八
抽斎の姉須磨が飯田良清に嫁して生んだ女二人の中で、長女延は小舟町の新井屋半七が妻となって死に、次女路が残っていた。路は痘瘡のために貌を傷られていたのを、多分この年の頃であっただろう、三百石の旗本で戸田某という老人が後妻に迎えた。戸田氏は旗本中に頗る多いので、今考えることが出来にくい。良清の家は、須磨の生んだ長男直之助が夭折した跡へ、孫三郎という養子が来て継いでから、もう久しうなっていた。