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しぶえちゅうさい
渋江抽斎
「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页
その曼公に書を学んだのは、十余歳の時であっただろう。天※(「さんずい+猗」、第3水準1-87-6)の子が頤斎である。頤斎の弟子が峩斎である。峩斎の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以である。
戴曼公はまた痘科を池田嵩山に授けた。嵩山の曾孫が錦橋、錦橋の姪が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶獲た曼公の遺品を愛重して措かなかった所以である。
この薬師如来は明治の代となってから守田宝丹が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
貞固と東堂とは、共に留守居の物頭を兼ねていた。物頭は詳しくは初手足軽頭といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼の格式である。平時は中下屋敷附近に火災の起るごとに、火事装束を着けて馬に騎り、足軽数十人を随えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里はかつて留守居を罵って、国財を靡し私腹を肥やすものとした。この職におるものは、あるいは多く私財を蓄えたかも知れない。