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しぶえちゅうさい
渋江抽斎
「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页
今抽斎に遅るること三年で世を去ったのである。
人の死を説いて、直ちにその非を挙げんは、後言めく嫌はあるが、抽斎の蔵書をして散佚せしめた顛末を尋ぬるときは、豊芥子もまた幾分の責を分たなくてはならない。その持ち去ったのは主に歌舞音曲の書、随筆小説の類である。その他書画骨董にも、この人の手から商估の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙の画百枚があった。題材は彼の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを憚る。装頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊には雛人形を遣らぬ代にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善の小字三吉である。五百は度々清助という若党を、浅草諏訪町の鎌倉屋へ遣って、催促して還させようとしたが、豊芥子は言を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本京都の両替店銭屋の息子で、遊蕩のために親に勘当せられ、江戸に来て渋江氏へ若党に住み込んだ。