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しぶえちゅうさい

渋江抽斎

森 鴎外

「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页

青空文庫

「まだ町住いの事は御存じないのだから、失礼ながらわたしたち夫婦でお指図をいたして上げます」といったのである。夫婦は朝表口の揚戸を上げてくれる。晩にまた卸してくれる。何から何まで面倒を見てくれたのである。

吉野の家には二人の女があって、姉をふくといい、妹をかねといった。老夫婦は即時にこの姉妹を入門させた。おかねさんは今日本橋大坂町十三番地に住む水野某の妻で、子供をも勝久の弟子にしている。

吉野は勝久の事を町住いに馴れぬといった。勝久はかつて砂糖店を出していたことはあっても、今いわゆる愛敬商売の師匠となって見ると、自分の物馴れぬことの甚しさに気附かずにはいられなかった。これまで自分を「お陸さん」と呼んだ人が、忽ち「お師匠さん」と呼ぶ。それを聞くごとにぎくりとして、理性は呼ぶ人の詞の妥当なるを認めながら、感情はその人を意地悪のように思う。砂糖屋でいた頃も、八百屋、肴屋にお前と呼ぶことを遠慮したが、当時はまだその辞を紆曲にして直に相手を斥して呼ぶことを避けていた。今はあらゆる職業の人に交わって、誰をも檀那といい、お上さんといわなくてはならない。それがどうも口に出憎いのであった。