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しぶえちゅうさい
渋江抽斎
「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」1916(大正5)年1月13日~5月17日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 166,525 字 · 334 页
その五十
継嗣問題とは当主順承が肥後国熊本の城主細川越中守斉護の子寛五郎承昭を養おうとするに起った。順承は女玉姫を愛して、これに壻を取って家を護ろうとしていると、津軽家下屋敷の一つなる本所大川端邸が細川邸と隣接しているために、斉護と親しくなり、遂に寛五郎を養子に貰い受けようとするに至った。罪を獲た数人は、血統を重んずる説を持して、この養子を迎うることを拒もうとし、順承はこれを迎うるに決したからである。即ち側用人加藤清兵衛、用人兼松伴大夫は帰国の上隠居謹慎、兼松三郎は帰国の上永の蟄居を命ぜられた。
石居即ち兼松三郎は後に夢醒と題して七古を作った。中に「又憶世子即世後、継嗣未定物議伝、不顧身分有所建、因冒譴責坐北遷」の句がある。その咎を受けて江戸を発する時、抽斎は四言十二句を書して贈った。中に「菅公遇譖、屈原独清、」という語があった。
この年抽斎の次男矢島優善は、遂に素行修まらざるがために、表医者を貶して小普請医者とせられ、抽斎もまたこれに連繋して閉門三日に処せられた。
その五十
優善の夥伴になっていた塩田良三は、父の勘当を蒙って、抽斎の家の食客となった。我子の乱行のために譴を受けた抽斎が、その乱行を助長した良三の身の上を引き受けて、家におらせたのは、余りに寛大に過ぎるようであるが、これは才を愛する情が深いからの事であっ