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みやもとむさし
宮本武蔵(七)
吉川 英治
Read 宮本武蔵(七) (みやもとむさし) by 吉川 英治 (よしかわえいじ) in Japanese with furigana. JLPT N2. Tap a word for the meaning.
N2 · advanced · modern kanji and kana · 350,912 characters · 702 screens
二
「畜生」
彼女は、犬が好きでない。振り退けながら、縄で打った。
そして、
「お帰り!」
と、元来た方へ曳き戻そうとすると、黒犬はまた、耳まで口を裂いて、
――うわんッ
と、吠え始めた。
縄はつかまえたが、彼女の力では動かなかった。無理に引っ張れば、狼のような甲高い声を発して、吠えつづける。
「なぜこんな物を、連れて来たんだろう。宝蔵の犬小屋へ繋いでおけばいいに」
と、彼女も癇が起った。
こんなことをしている間に、もし別当の観音院を今朝立つ筈の――武蔵が早くも来かかったら、不審に思われるにちがいない。この犬が、この道に、うろうろしているだけでも、機敏な彼に気遣われる惧れは十分にある。
「ちいッ、しようがないね」
お甲は、持て余した。
黒犬は吠えやまないのである。
「仕方がない――お出で。その代り、奥の院へ行ったら、吠えるんじゃないよ」
やむなく彼女は犬を曳いて、いや犬に曳かれて――先へ登った人々の道を後から喘いで行った。
それきり黒犬の吠える谺はして来なかった。黒犬は嬉々と、飼主の匂いを追って行ったのだろう。
一夜中、うごきやまずに動いていた霧が、谷間へ、厚ぼったい雪のように落着いて、武甲の山々や、妙法や、白石や、雲取の相が澄んで来ると、奥の院道も白み渡って、チチ、チチ、チチ……と小鳥の声が耳を洗う。