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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

五十九

何かの深い微笑のように咲く椿の花、言葉のない歌を告げ顔な歌わない小鳥、それらはみな彼の心の光景だ。

「言わなくたって、もう分ってます」

この言葉を残して置いて行った節子は、世の幸福を捨てて岸本に随おうとする彼女の意志を明かにした。過去に於いて罪の深いもの同志が互に世の幸福を捨てるということは、実に一切を捨てるということであった。

新しい愛の世界が岸本の前に展けかかって来た。恥じても恥じても恥じ足りないように思った道ならぬ関係の底からこれだけの誠実が汲めるということは、岸本の精神に勇気をそそぎ入れた。そこから彼は今まで知らなかったような力を掴んだ。

五十九

岸本の過去は不思議なくらい艱難な日の連続で、たださえ頑な彼はその戦いのために余計に自分の心を堅く閉じ塞げてしまった。何よりも先ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない、とはかねて巴里の客舎にある頃の彼の述懐であったが、どうしても彼にはその心に立ち帰ることを許されなかった。火葬場の鉄の扉の前に立って灰になった妻の遺骨を眺めても唯それを見つめたきり涙一滴流れなかったほどこの世の苦しい傍観者としてあった長い年月の間と言わず、冷然として客舎の石の壁に対い合っていたような三年の遠い旅の間と言わず、彼の思い続けて来たのは実際次の言葉に籠る可傷しい真実であった。