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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

百二十二

手はいくらも御座いますから」

という言葉を残して置いて母屋の方へ引返して行った。

岸本に取っては帰国当時の季節を思い出させるような七月らしい雨の来た日であった。その時になって見ると、彼はこの下宿に一番長く泊っている客で、一年ばかり離座敷で暮すうちには女中等の顔までも変って来た。例のように彼は部屋の茶戸棚の側に陣取って膳に対って見た。懺悔を書き始めてから以来閉居する身には庭の草木も眼についた。夏らしい涼しい雨は開けひろげた障子の外に見える青桐の幹をも伝って流れていた。縁先に立つ古く細い松の根、苔の生えた庭石、青々とした笹の葉、皆濡れて見えた。彼は飯櫃を自分の方へ引寄せて、手盛りでノンキにやった。その部屋から雨を眺めながら独りで飯を食った。

節子がこの下宿へ仕事の手伝いに通って来た日のことは、最早静かなところで想い起して見る昨日のことであった。岸本は未だこの庭へ鶯が来てさかんに鳴いていた頃に節子が一度病院から訪ねて来たことを想い出し、嫂が亡くなってから十日ばかり経った頃に彼女がひどく疲れてやって来たことをも想い出した。四月の末には彼女はリリスの花を一鉢持って来て置いて行ったこともあった。