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しんせい
新生
島崎 藤村
「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页
「お支度が出来ました」と言っては食事の時毎に部屋の扉を叩きに来る仏蘭西の家婢のかわりに、ここには御膳や飯櫃を持って母屋の台所の方から通って来る女中がある。寝台や蝋燭台から洗面器まで置いてある部屋の片隅の壁の上に掛ったソクラテスの最後の図なぞのかわりに、ここには長押の上の模様のような古い扇面を貼りまぜた横長い額がある。すべてが懸絶れていた。それにも関らず、岸本は巴里の下宿生活の記憶をここへ来て喚起そうとした。あの異郷の旅窓で独り学芸に親しんだように、今またこの離座敷の障子の側に机を寄せて帰国以後とかく仕事も手に着かなかった一年の月日を取返そうとした。秋までに彼は旅行記の稿を継ごうとする心があった。そのために専心机に対おうとすることから言っても節子を通してちょいちょい聞えて来る義雄兄の嫌味を避けようとすることから言っても、彼はしばらく節子から離れていようと考えるように成った。
下宿へ移って一月あまり経つ頃に、節子は暑さの見舞をかねて例の鉛筆で走り書に書いた手紙を送ってよこした。先日伺った時も、お髭の延びたせいばかりでなく、何だかお痩せに成ったようで、自分は大変済まないことをしているような気がする、何から何まで御一人に御心配をかけて、と書いてよこした。