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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

行けるだけの旅を行き尽して一番最後に呼んで見たいものは、子供の時分に死別れた父の名でもなく、十二年も連添った亡き妻の名でもなく、何と言っても濁り気のなく感じ易い青年時代に知った最初の情人の名であったほど、それほど旅の心の閉じ塞がってしまった時。そういう時に彼が見に来たのはこの水だ。相変らずセエヌは高い石垣の下の方を冷く音も無く流れていた。彼はそれを右手に見ながら、新緑の並木の続いた河岸の歩道に添うて、旅館のある町の方角へと歩いた。

仏蘭西の旅に来てから以来のことが何となく岸本の胸に纏まって来た。彼はこの旅のはじめに国から持って来て仏蘭西人の間に分けた植物の種子のことを思出した。あの中には中野の友人から贈られた茶の実ばかりでなく、築地の方に住む知人が集めてくれた銀杏、椿、沈丁花、その他都合七種ばかりの東洋植物の種子があったことを思い出した。あの土産は殊の外仏蘭西人にめずらしがられて、ブロッスの老教授の手から彼方へ三粒、是方へ四粒と分けられたが、ある日本美術蒐集家の庭には銀杏が生えたという話のあったことを思い出した。あの種子の一部は植物園に移って、そこの主事から礼手紙の来たことを思い出した。