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しんせい
新生
島崎 藤村
「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日
N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页
二十八
せた。
「ホウ。鯨。鯨」
と二人の子供は互に言い合って、まるでお伽話でも聞いているような眼付をしながら、鯨の捕れたのを見て来たという父の旅の話なぞに耳を傾けた。
まだ岸本は海から這い上って来たばかりの旅行者のような気もしていた。彼の心は還りの船旅に通過した赤道の方へも行き、無数な飛魚の群れ飛ぶ大西洋の波の上へも行った。十字架の形をすこし斜に空に描いたような南極星も生れて初めて彼の眼に映じたものであった。暗い海を流れる青い燐の光も半ば夢の世界の光であった。倫敦を出発してから喜望峰に達するまで、彼は全く陸上の消息の絶え果てた十八日の長い間を海上にのみ送って来た。船は南阿弗利加ダアバンの港へも寄って石炭を積んで来た。新嘉坡に近づく頃望んで来たスマトラの島影、往きに眺め還りにも眺めた香港の燈台、黄緑の色に濁った支那の海――こう数えて来ると実に数限りも無い帰国の旅の印象が彼の胸に浮んで来た。
二十八
実に突然に、節子は沈んでしまった。それは岸本が来訪の客のいくらか少くなったのを見計らって自分の方から毎日訪問の為に出歩いている頃であった。折角元気づいて働いていた節子が何故そんなに急に鬱いでしまったのか、何が面白くなくてまるで萎れた薔薇のように成ってしまったのか、さっぱり岸本には訳が分らなかった。