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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

八十四

「お蔭さまで、大楽しみを致しました」という女中までが草臥れたらしく帰って来た。

「父さん、今日は大失策をやらかしたよ」と気の早い繁が誰よりも先ず途中での昼食のことを言出した。「泉ちゃんがお蕎麦屋と間違えて、お料理屋へ飛び込んだりなんかして――玉子焼に、椀盛にサ――そりゃ高く取られたから」

「僕はお蕎麦屋と間違えちまったのサ」と泉太も笑い出した。

「それはそうと、お嬢さまがいらしって下すっても、今日はお昼飯の支度も致して置きませんで」

こう女中は節子の方を見て言った。

この女中は節子のことを「お嬢さま、お嬢さま」と呼んでいた。

「いえ、有るもので頂いて置きましたよ」

と節子は答えて、祖母さんや岸本が夕飯を一緒にと勧めたのも聞き入れずに、暗くなる家路を心配しながらそこそこに谷中をさして帰って行った。

八十四

それから、岸本は子を連れた旅人のような方針に向って動いた。そして最早家庭というものに未練のない自分だけの栖所を下宿に求めようとした。端午の来る頃には――泉太や繁が幼少い時分に飾った古びた金時や鯉なぞを取出して見たり、粽を祝ったりするのを楽みにしている間に――彼はわざとばかり菖蒲の葉をかけたこの軒端も見納めにするような心でもって、すでにすでに高輪を去ろうとする心支度を始めていた。