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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

八十五

八十五

高輪を去る時が来て見ると、あの品川の停車場から乗って来た車を降りて独りでしょんぼりこの家の門口に立った帰国の日以来のことが何となく岸本の胸に纏まって来た。未だ未だ彼の心は薄暗くて附纏う秘密の影から離れることは出来なかったけれども、でもその薄暗さは遠い旅で暮した月日の暗さとは比較に成らなかった。歩けば歩くほど彼の心は明るく成って来た。この歓びは更にこれから行くべきところへ行こうとする彼を励まさずに置かなかった。

下宿に移る前の日には、岸本はあらかた世帯を畳むまでに漕付けることが出来た。古い箪笥を欲しいという祖母さんへは園子の時代から残っていたやつを、油絵の額をという久米へは彼女の部屋に掛っていたルュキサンブウルの公園の風景を、いずれも半歳余を一緒に高輪で暮した記念として分けた。祖母さんが燈明をたやさなかった仏壇には古い小さな位牌が錆びた金色に光っていた。岸本は遠い旅まで持って行った記念の鞄を提げて来て、その中に位牌を納めた。

「御覧、母さんが鞄の中に入ってしまった」

と彼は泉太や繁に言って、その鞄を子供等の前で提げて見せた。

「僕にも母さんを提げさせて」