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しんせい

新生

島崎 藤村

「東京朝日新聞」1918(大正7)年5月1日~10月5日、1919(大正8)年8月5日~10月24日

N2 · 挑战 · 新字新假名 · 334,815 字 · 663 页

青空文庫

箱根の山の裾へ来て聞く深い雨とも、谷間を流れ下る早川の水勢とも、いずれとも差別のつかないような音に耳を傾けながら、岸本は僅に言出した。

「僕もね……まあ深い溜息の一つも吐くつもりで出掛けて行って来ますよ……」

「そうだねえ、一切のものから離れて、溜息でも吐きたいと思う心持は僕にも有るよ」

そういう代々木の眼は輝いていた。志賀はまた思いやりの深い調子で、岸本の方を見ながら、

「奥さんのお亡くなりに成ったということから、仏蘭西あたりへお出掛けに成るようなお考えも生れて来たんでしょう」

「とにかく、一年でも二年でも、旅でゆっくり本の読めるだけでも羨ましい。加賀町なぞも君の仏蘭西行には大分刺激されたようだ」

と復た代々木が言って、「しばらくお別れだ」という風に岸本のために酒を注いだ。

その日、岸本はさかんな見送りを受けて東京を発って来た朝から、冷い汗の流れる思をしつづけた。余儀ない旅の思立から、身をもって僅に逃れて行こうとするような彼は、丁度捨て得るかぎりのものを捨て去って「火焔の家」を出るという憐れむべき発心者にも彼自身を譬えたいのであった。こうした出奔が同年配の友人等を多少なりとも刺激するということは、彼に取って実に心苦しかった。